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パリという都市名の由来~ケルト民族との関係~

Coucou !
ケイです。

今回は我々にとって第二の故郷と言っても過言ではないフランスのパリの名前の由来についてご紹介致します。
こちらも僕がTwitterでブログのアイデアを募集し、Moitié Moitiéさん(https://twitter.com/MoitiEMoitiE4)からアイデアを頂きました。
Moitié Moitiéさん、本当にありがとうございます!

1. パリの概要

名前の由来に入る前に、パリの概要について見てみましょう。
日本貿易振興機構(以下:JETRO)のホームページによると、2019年1月の暫定値で、フランスの総人口は6,699万2,699人。
そしてパリの人口は2016年時点で約221万人でした。

面積は約105平方キロメートルで、東京の山手線の内側とほぼ同じ大きさ。
街は東西12キロ、南北9キロの楕円形の形をしており、中央を東西にセーヌ川が流れ大きく右岸と左岸に分かれています。
中心のシテ島を基点とする20の区から成り立っており、16区にはパッシー地区などの高級住宅街が、11区や20区は小民階級が住む地区が広がっています。

2. 「パリ」の由来はケルト民族?

パリの歴史は古く、紀元前4世紀頃には既に人が住み始めていたという記述が残っています(もっと前から住んでいたという説もあります)。
紀元前3世紀頃になって、ケルト部族のパリシイ族がシテ島を定住をし始め、ここに城塞都市を建設しました。
これがパリ設立の起源といわれており、当時はラテン語でルテティア・パリシオルム( Lutetia Parisiorum パリシイ族の沼沢地)と呼ばれていました。
誰に呼ばれていたかというと、ローマ人によってです。



紀元前50年にローマ皇帝ユリウス・カエサルがガリア(現在のフランス)に進出してくるまで、ルテティア・パリシオルムはガリア語、ゴール語を話すケルト諸部族が住む街でした。
カエサルの進軍により、ガリアはローマ帝国に敗れ、次第に帝国への同化が進みます。

3世紀頃にルテティア・パリシオルムは先住民パリシィ族の名称をとってパリ(Paris)と改称されました。
これがパリという名前の起源だと言われているそうです。

あとがき

3世紀頃には現在のようにパリを呼ばれていたこの華の都の運命は、あまり華やかなものではなかったようです。
というのも、476年の西ローマ帝国の滅亡に伴い、パリは6世紀頃に一度衰退をしてしまいます。
西ローマ帝国滅亡後は、ゲルマン民族の一派であるフランク族がこの地に到来し、フランスの起源といわれるフランク王国を成立させました。
このゲルマン民族の国家は、首都を定めずに居所を移動させるのが常であったことに加え、やっと首都を築いて腰を落ち着かせたカール大帝は、現在のドイツ西部にあるアーヘンを拠点とし、宮殿を構えてしまいます。
カール大帝の戴冠から400年ほど経った12世紀のカペー朝の時代に、パリは漸く首都としての機能を持つようになったようです。

僕なんてパリはずっと前から首都だったと思っていましたが、
実は色々な紆余曲折があったのですね。

きっと上記のことは高校生の時の世界史の授業で習っているはずなのですが、
もうすっかり忘れておりました(笑)

次回はいよいよ、「フランス語人材のキャリアパス」の記念すべき第一回目を投稿させていただきます!
皆様、楽しみにしていてくださいね!

À très bientôt
Kei

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